Web 2.0時代に個人的に想うこと

ここ半年ほど、「Web 2.0」という言葉をよく耳にするようになりました。正確な定義については色々と議論があるようですが、いわゆる「技術的な進化」を示す呼称ではなく、「インターネットがどんなふうに使われるか」も含めて、ここ最近から近い将来にかけて見られるであろうパラダイムシフトをひとことで言い表したものだと思います。
では、そのパラダイムシフトとは、どんなものでしょうか?

詳しい概念論はティム・オライリー氏の論文をご覧いただくとして、簡単にその本質を言い表すとすれば、私は以下のように理解しています。

  • 不特定多数の一般ユーザーが「表現者」として参加できること。かつ
  • 不特定多数による集合知を活用していること。

ブログやSNSといったCGM(Consumer Generated Media:消費者が発信するメディア)はもちろんのこと、AmazonのカスタマーレビューやWikipediaのように「一般からの投稿」が肝となっている仕組み、Googleのリンクポピュラリティという考えかた(リンクを貼るという行為を「人気投票」と捉え、被リンクの量や質が高いものほど高評価が与えられるという仕組み)、Webサービス/APIによるマッシュアップAmazonアソシエイトGoogle Maps APIAdSenseのように、一般ユーザーでも自分のサイトに機能を組み込んでコンテンツの充実を図れる仕組み)など、いわゆる「Web 2.0的」と言われている現象を見てみると、おおよそ上記の2点が当てはまっているのではないでしょうか。

言い換えれば、インターネットの世界では今後ますます「言論の自由」が増し、性善説を前提に群衆の英知を集めて活かす素地ができつつあると言えるでしょう。一部の権威(たとえば消費者や中小零細企業にとっての「大企業」、大衆にとっての「国家」「役所」、弱小国にとっての「大国」など)の言葉が絶対ではなくなってきているのです。

個人的には、このWeb 2.0という現象を感慨深く捉えています。というのも、私の祖父が横浜事件で言論弾圧を受けたからかもしれません。
結局祖父は亡くなるまで、自らの口から事件のことを語ることはありませんでした。そこに祖父の崇高なダンディズムを感じると同時に、口にできないほどの修羅場を強いた時代を恨めしく思わずにはいられません。

Web 2.0の時代が幕を開け、国籍や民族、性別、思想信条、社会的地位を問わず、大衆が「表現するパワー」を持つのが当たり前になりつつある今日、もうあんな時代が来ないことを信じたいと思います。

インターネットがある時代で、ホントによかった。

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