「satisficing」を考える

英語で「satisficing」という言葉があります。「satisfy (満足させる)」と「suffice (十分である)」を掛け合わせた言葉で、「不満なく事足りている (good enough である)」状態を表わしています。限定合理性 (bounded rationality) の研究で知られる認知心理学者のハーバート・サイモン氏 (Herbert Simon) による造語と言われ、人は課題解決において自ずと達成希望水準を設定していて、限定された条件下で手っ取り早くその水準以上の解決が成されればそこで満足しがちである (それ以上の理想の追求はしない) ことから、この言葉が生み出されたようです。

ユーザビリティ界隈でも古くから使われている言葉で、たとえば以下のサイトで定義が記されています。

今回の記事では、この satisficing とユーザビリティの関係について、いろいろな側面から考えてみたいと思います。

UCD プロセスの側面から

優れたユーザビリティ実現するための UCD (User Centred Design : ユーザー中心設計) プロセスにおいては、ユーザーの利用状況を把握し明らかにすること (Understand and specify the context of use *) と、ユーザーの要求を明らかにすること (Specify the user requirements *) がまず重要となります。

* ISO 9241-210 (Ergonomics of human-system interaction — Part 210: Human-centred design for interactive systems) より

ところが、これら「ユーザーの利用状況」や「ユーザーの要求」を明らかにしようとする際に、ユーザーインタビューなどでユーザーの言葉 (意見) を鵜呑みにしてしまうと、限定合理性に基づいてユーザーが事足りてしまっていることに対してそれ以上の知見が得られない恐れがあります。ユーザー行動観察 (あるいはエスノグラフィックなフィールドワーク) を通じて言葉の裏を探ったり、ユーザーが発する言葉に対して「なぜ」を繰り返して深堀りしたりすることが大事 (かつ効果的) なのは、デザインのコンセプトワークの段階において、ユーザーの satisficing に惑わされず問題の本質を見つけ出すため、と言うこともできそうです。

UI デザインの側面から

「ユーザーの利用状況」や「ユーザーの要求」を明らかにしたら、その解決手段をユーザーインターフェース (UI) の形で具現化するわけですが、その際にはユーザーの「限定合理性に基づいた意思決定のしかた」を意識するとよいでしょう。つまり、UI という限定的な制約の中で、ユーザーが負荷を感じることなく、目的達成できる (満足できる) ようデザインします。

このうち、ユーザーに負荷を感じさせない方策としては :

...などが考えられるでしょう。「ユーザーの利用状況」「ユーザーの要求」に沿って機能や情報をできるだけ厳選し、ユーザーのメンタルモデルに照らし合わせて「シンプル」と感じてもらえるようデザインするのです。そのうえで、ユーザーがあらかじめ抱いていた達成希望水準を大きく超える解決を、その UI を介して提供することができれば、高いレベルの satisficing をもたらすことができ、より優れたユーザーエクスペリエンス (UX) となることが期待できるでしょう。

アクセシビリティの側面から

「satisficing」という言葉がアクセシビリティとの絡みで語られるのを私自身は聞いたことがありませんが、アクセシビリティをどう担保するかを決めるうえで、実は satisficing という考えかたはよい指針になるのでは、と個人的には思っています。というのも、アクセシビリティ関連の実装のアンチパターンには「今となってはそこまでやらなくてもよい」ものが案外多いからです。たとえば :

...といった類のものですが、こうしたアンチパターンは、支援技術を含むユーザーエージェントの進化によって、あるいはインタラクションにおけるユーザー側の機転 (融通の利かせかた) によって、実は何とかなっている (satisficing な状態である) ことを理解していないがために、生じていると言えそうです。satisficing への無理解が、実装コストの無駄、UI の煩雑化、サイト運用負荷の増加といったことにつながりかねないという意味でも、気をつけたいところです。